【書評】 里山資本主義

話題の里山資本主義を、遅ればせながら読んだので、書評してみました。

お付き合いください。

 

里山資本主義 日本経済は「安心の原理」で動く (角川oneテーマ21)

里山資本主義 日本経済は「安心の原理」で動く (角川oneテーマ21)

 

 

正直に言って、本書を手に取った動機は、徹底的に批判してやろうというものだった。評者がタイトルから勝手に想像していたことは、結局、里山を資源と見なして、資本主義経済の枠組みにおいてその価値を見直していこうと言うのだろうと思っていた。結論から言えば、その予想は、いい意味で裏切られたことになった。本書は、現代社会における里山の価値を、非常に用心深く、言葉を選びながら、丁寧に位置づけていくものだった。それは、「古き良き日本人の心」を押しつけがましく主張してくる従来の書籍とは大きく異なるところだった。新書大賞2014で第1位を獲得したのも頷ける。さて、本書の内容に移って行く。

 

 まず、評者の誤解を生んだ「里山資本主義」という言葉についてである。この言葉、「里山/資本主義」と区切ってしまうと、評者と同じ誤解にたどり着くだろう。本書の内容をきちんと読めば、資本主義という言葉に深い意味はないことがわかった。では、なぜ資本主義という言葉をわざわざ使用しているかというと、本書は、「マネー資本主義」に対するサブシステムとしての「里山資本主義」を提唱しているからだ。つまり、「マネー資本主義」の対となる概念であることをわかりやすくするため、「資本主義」という言葉を使用しているのだろう。その意味で、「里山資本主義」を、「資本主義」の枠組みで捉えようとすることは、間違いである。「里山資本主義」とは、簡単に言えば、「マネー資本主義」が、何でも金銭によって交換できるものを対象としているのに対して、「里山資本主義」は、お金にならないけど大事なものを大切にしようという考え方である。

 

 里山資本主義から生み出されるアイディアは、ことごとくマネー資本主義に逆行する。例えば、①「貨幣換算できない物々交換」の復権では、NHKから取材を受けた農家のおばさんが、「NHK」という文字を浮かび上がらせたカボチャをお礼に送ったことを例に挙げている。これは、一方的に送りつけたということになるのだが、結局、NHK広島の関心を引き出してしまった。②規模の利益への抵抗では、車はマネー資本主義の恩恵に預かってお安く買わせていただく一方、食糧と燃料に関しては地元産のものを使用し、自己調達を増やそうと述べられている。③分業の原理への異議申し立てでは、分業の原理である、各人が自分のできることの中で最も得意な何か一つに専念して、成果物を交換する方が効率がいいという考え方に対して、異議を唱えている。里山資本主義では、一人多役をすすめている。分業のすすめが、結局、人を交換可能なものとして捉えようとしているのに対し、一人多役であるというのは、その人の交換が効きにくいという反面、熟練すれば、その人が一人以上の働きを生み出すことができるというのである。

 

 このような里山資本主義を貫いている2軸は、第1に人とのつながりであり、第2に自然とのつながりである。この時、第1の人とのつながりは、自己のかけがえのなさを他者から承認されるという根源的な歓びのことを示しており、第2の自然とのつながりは、マネー資本主義における「頼るものがお金しかない」という不安に対するセーフティーネットとして機能する。

 

 さて、この里山資本主義、マネー資本主義の良いところをうまく引き入れつつ、人とのつながりによって生の実感を、自然とのつながりによっていざというときのセーフティーネット(もしくは、安全地帯があることによるリスクを取ることができるというメリット)の機能をサブシステム的に組み入れている。そこで言及していることも非常に現場の感覚に即していて、大変納得できる部分が多い。このまま、本書は大変素晴らしかったといいたいところだが、それでは書評の意味がないので、難癖つけてみようと思う。

 

 まず、本書で説明されている内容については、「マネー資本主義」の問題点を的確にとらえ、ポイントを押さえて里山資本主義の優れている部分を用心深く押し出している。その語り口には大変好感が持てるし、内容も示唆に富んでいる。しかしながら、本書の説明は、不十分である。人とのつながり、自然とのつながりだけでは、田舎のおじさんたちの異様に活発な姿は説明しきれない。言及すべきもう一つの軸として、<自由>があるのではないか。冷戦において、社会主義と資本主義が、武力によっては拮抗していたにもかかわらず、結局のところ資本主義が勝利を収めることになったのは、人々の自由への渇望が資本主義へと自ずと導いたからである。だから、マネー資本主義のサブシステムとして里山資本主義が機能するには、自由という点において、マネー資本主義にも匹敵し得るほど魅力的でなくてはならないのではないか。履き違えてはならないのは、「里山資本主義を自由に選べる」=「自由」ではなく、「里山資本主義によって自由を感じられる」=<自由>でなければならない。田舎のおじさんたちが異様に生き生きしているのは、<自由>だからではないだろうか。

 

 <自由>について言及したとすれば、次に気になる点は、里山資本主義の説明で度々登場する「志」という言葉である。本書では、わざわざ「支援金」を「志援金」と言い換えたりするほど、この言葉に愛着があるようだ。だが、「志」とは、ともすれば<自由>と相反する概念であるように思う。明確な「志」があればあるほど、現在が「志」のための「手段」になってしまいかねない。生とは本来、志すものではなく自己目的的なものではなかったか。生きることにわざわざ「志」を持っていなければならないとすれば、窮屈だろう。むしろ、「志」が遠のいたとき、相対的に<自由>なのではないか。

 

 最後に、相対的に<自由>ということを考えたときに、本書の説明の仕方は静的である。なぜなら本書は、すでにして生き生きしている事例を紹介し、生き生きしている理由を説明するというものだからだ。しかし、たとえば、生き生きしているおじさんをいくら分析しても、生き生きしているおじさんを説明することはできない。生き生きしているおじさんは、「里山資本主義」だから生き生きしているわけではない。「マネー資本主義」から「里山資本主義」へと移行したから生き生きしているのだ。つまり、そのダイナミックスこそが<自由>の獲得なのである。この意味で、「里山資本主義」は「マネー資本主義」なくしてあり得ないし、サブシステムであると言えるだろう。本書において、その移行のダイナミックスについては一切言及されていない。

 

 このように、本書は、難癖つけようと思えばつけられる。しかし、それでもなお、本書で説明されている内容は大変示唆に富むものであり、十分に読む価値のあるものといえる。里山資本主義は、言ってみれば、<生きる歓び>に焦点を当てた、地方再生の一つの方向性を指し示す概念であり、そのキーワードは人、自然とのつながりであった。評者としては、そこにさらに<自由>の概念を付け加えて、発展的考察をすることが望ましいと感じられた。