震災20年目の物語

 神戸という街は、僕にとってやはり、特別な場所だと思う。もちろん、記憶が集積しているというような、故郷的な意味合いではないし、特別に親しい友人がいるというわけでもない。それは、僕が生まれた大阪から近くて遠い、情報だけはよく入ってくるといような場所だ。僕の生とは交わらない生が営まれているということを、いつも身近に感じられる街だといってもいいかもしれない。

 
 こんなことを言ったら多くの防災研究をしている学者や、震災の恐ろしさを伝える語り部の方々に怒られそうだが、自分自身が災害に会うということは、どうしても想像できない。それは、僕が大阪という街に生まれ育った事と関係しているかもしれない。大阪という街は、大いなる力を宿した不可視の守護神たちが、常に切れ目ないシフトを組んで外的な力から人々を守っているのではないかと思うほど、台風は大阪の直前で突然その進路を変えるし、川の水位の上昇は決壊ギリギリのところで止まる。テレビの気象予報だけは、年々エスカレートしていくようで、特別警報が出たり、避難勧告が出されたりして、その度にハラハラと不安を抱きながらも、終わってみれば、「なんだやっぱり大丈夫だった。」という若干の安堵感を抱き、また変わらない日常に戻っていく。

 こんなことを考えてしまう僕だから、隣街の特別な日には、そわそわと居心地の悪い思いをする。それは、実際には見知っていない遠い親戚のお葬式で、厳粛な空気をやけに意識してしまうときの嫌な感覚に似ている。あるいは、簡潔に同調圧力といってしまう人もいるかもしれない。要するに、全体としての空気感になじめず、結局それを相対化することでしか自分を保つ事ができない物哀しさを、全面的に引き受けなればならいのが、僕にとっての1月17日である。

 今年は、阪神淡路大震災から20年目の年だ。毎年追悼式が行われている東遊園地では、早朝から午後にかけて、過去最高の約7万5千人がその場に足を運んだ。僕自身も当日、5時56分に手を合わせようと東遊園地に来ていたが、あまりの人の多さに、流石に辟易していた。それでもなんとか公園の中央部に入り込み、灯をともして祈りを捧げることが出来たのは、あるいはラッキーだったのかもしれない。それほどまでに、人の壁は分厚かったし、追悼式はある種のカウントダウンのように慌ただしく感じられた。

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 ここで強調しなければならないのは、僕自身が断じて震災の「当事者ではない」ということだ。僕は確かに追悼の場にいたし、手を合わせたが、祈りを捧げる先がいつもぼやけて見えない。目の前にオレンジ色に輝く「命」や「絆」と書かれた竹灯籠を前にしても、僕の耳は無情にもカメラのシャッター音を正確に拾い上げていく。これはどうしようもないことなのだ。そしておそらくは、その場を訪れた約7万5千人の内の多くの人も、それに近いような感覚を抱いたのではないかと思う。あるいは、割り込んでくる見知らぬおばちゃんに腹を立てていたかもしれないが。このようにして、隣街の特別な日は、結局20年目も僕にとってはただ物悲しいものとして過ぎ去っていった。

 僕がこの日感じたことを言葉に当てはめるなら、「記憶の風化」ではないかと言ってみる。というか、奇妙なことを言ってしまえば、やはり記憶は風化しない。記憶は雨風に晒されたわけではないし、そもそもが建物のように風化するものでもないのだ。ただ人々の間で、「記憶の風化」があるだけである。あるいはギャップのようなものかもしれない。阪神淡路大震災という言葉に対して、具体的な体験をどれだけ思い起こすことが出来るかという程度のギャップである。震災を実際に経験した人と、僕のような「父が倒れてくるタンスを必死で押さえているシーンだけは覚えています。」と不思議と誇らしげに宣言しないといけない隣街の若者とでは、程度の差は歴然である。そしてその程度の差を感じることそれ自体が「記憶の風化」だと思う。

 であれば、東遊園地での追悼式などは「記憶の風化」を助長する最たるものである。祈りの正式な意味が「死者」に向けられたものだとするならば、身動き取れないほど集まった群衆の中で、どれだけの人が正式な意味での祈りを捧げることができたのだろうか。疑問を抱かざるを得ない。少なくとも、急病人を助け出すための救護班が通る道さえも空ける事が出来ない混乱の中、「病人出てんねんぞ!はよどかんかい!」と怒号が飛び交う場所に、「死者」はいない。僕たちはこぞって形式的な祈りを捧げ、シャッター音に耳を澄まさなくてはならないのだ。

 

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 あるいは、その場にいる全員が、その場になじんでいなかったといってもいいかもしれない。ある意味でその場にいる全員が、「厳粛であれ」と東遊園地の上方から命令を下す神を目撃したと言っても過言ではない。もっと言えば、その場に訪れたほとんどの人は、神を目撃しにきたのかもしれない。あくまで異和的に。それは、いつまでかき混ぜても溶け合わない、コーヒーに入れた冷えすぎたミルクのように、温度差に凝固して表層をゆらゆらと漂うかのようだ。それほどまでに、東遊園地に20年前から宿る神は強大な力を持っていて、その輪郭は明確であった。「記憶の風化」は、神と僕たちとの温度差のことではないか。

 もしくは、神は怯えているのかもしれない。忘れ去られてしまうということを。だから、「忘れないでくれ」となかばせがむような気持ちで、その存在感を強固にしているのだろう。ちょうど家で留守番をすることになった子供が、親に再三帰りを確認するかのように。だから僕たちは、「安心していいよ」となだめたり、「お疲れさま」と声をかけなければならないと思う。もう20年も神様は頑張ってきたのだ。そろそろ肩の力を抜いて、リラックスしたっていいじゃないか。誰もとやかく言う人はいないさ。それが震災のことを忘れ去ってしまうことでもないし、記憶が風化するわけでもないのだ。「記憶の風化」が僕たちの関係の問題だとするならば、神様だけが頑張りすぎることもないのだと言ってやらねばならないのではないか。そして神とは、集合的な僕たちのことだろう。

 震災20年を迎えて、当時を知るものは少なくなった。それは良くも悪くも仕方のないことだと思う。隣街じゃなくても、僕みたいな考えを持つ人も増えてくるだろう。どうあっても無責任なことしか言えないが、それでもやっぱり神戸は特別な街だし、阪神淡路大震災は僕たちにとって共有された物語である。たとえそれがアンチクライマックスな物語で、今後大きな盛り上がりが期待できないとしても、なだらかに次章は紡がれていくし、僕らはその物語の登場人物として(それがキャラ立ちしないたわいもない役だったとしても)、今後も生を営んでいくのだ。

 1月17日から一週間が経とうとしているが、まだ一週間しか経っていないのかと感じるくらい、だいぶ以前の出来事のように思える。僕は、体験した事を出来るだけすぐに書き記しておきたいという時と、少し時間を置いてからしか書けないなという時があるが、今回は、おそらく後者であった。普段なら、一ヶ月くらいは時間を置くのだが、どういうわけか、今日自然と言葉にしておこうと思い立った。僕のお気に入りの天王寺は、相変わらずイルミネーションが綺麗で、寒すぎる事もない外気に、恋人たちや仕事終わりのサラリーマンが、僕の知らない目的地を目指している。神戸であろうと、一緒だろう。震災から20年を迎えたとしても、僕たちはその延長線上で、それぞれの物語を紡いでいけばいい。それでいいんじゃないですか?神様。