「悼む人」の不快な読後感を大切に。

「悼む人」が映画化されるということで、小説を先におさらいしておこうと思った。

映画化しても、月並みなメッセージに回収されないような、不快な作品であってほしいと思う。

 

悼む人〈上〉 (文春文庫)

悼む人〈上〉 (文春文庫)

 
悼む人〈下〉 (文春文庫)

悼む人〈下〉 (文春文庫)

 

 

以下、感想文。

 

 本書は、「オール讀物」で2006年10月号〜2008年9月号まで連載され、2008年に単行本が出版、そして2011年5月に文庫本が出版された。本書が執筆される直接の契機は、9.11後のアフガニスタンへの報復攻撃によって、多くの人々の死が次々と報道されつつも、その死に悲しむということが忘れられている現状に対して、著者である天童荒太が違和感を持ったことにある。

 

 そして、2011年3月11日、大きな揺れが東北地方を襲い、大勢の人の命が波に奪われた。その際書店は、「本屋の村の仲間たちの輪」という独自のネットワークを形成し、当時書店にできることとして、今こそ人々に必要とされている文学は何かと考えたときに、「悼む人」が選ばれた。「悼む人」はまた、多くの人々に読まれることになった。

 

 文庫版には、4件の書評が掲載されているが、どれも2008年に書かれたものである。そこで本評では、3.11後に本書を読んだならば、本書はどのように語られうるかについて考えたい。

 

 まず、本書は、はっきりいって未完成な作品である。「死」という本書のテーマに対して、作者自身が答えを出し切れていない。それどころか、「どうとらえたらいいかわからない」中で手探りをしているという感じが、ひしひしと伝わってくる。だから、本書の読後感は、不快である。見ず知らずの人の死にずかずかと入り込み、勝手にその人を解釈され、勝手に「悼む」という不快な行為をする主人公につきあわされる。物語としては一応終結の体をとるが、テーマは宙ぶらりんのままである。伝えたい主張が見つからないまま、テーマに対する答えを出すことを巧妙にさけている。そんな印象だった。

 

 しかしながら、本書の中で唯一はっきりしているのは、「ただ悲しむことを忘れないで」というメッセージである。死者に対する悲しみは、すぐにほかの感情に取って代わられる。事件の記憶を聞けば、恨みや怒りが、死者への悲しみを濁らせる。だから、死者の生前の記憶、つまり「誰に愛され、誰を愛し、どんな感謝をされたか」を尋ね、そのかけがえのない生があったことを覚えておき、それが失われたことを「悼む」ことが重要なのである。

 

 本書からは、これ以外のことはわからない。いろいろな物語が並行して進んでいく形式をとっており、他人の死をあつかった記事を書いて飯を食っているもの、死を宣告され自分の死と向き合っているもの、夫を殺し、死を背負って生きるものの3者の視点から、「悼む人」が描写されているが、「悼む人」の不快な行為の謎は一向に解けない。結局、「悼む人」は、筆者自身でさえ得体の知れないものであり、死にまつわる3者を登場させたのは、いろんな死に関わった人から見れば、理解ができるかと試みた結果であり、その試みは見事に失敗に終わったと言える。

 

 だが、本書は、この模索中の段階で出版したということに大きな意味がある。そもそも、「死」というテーマに対して明快な答えを出すことはできないし、なるほど…と腑に落ちた瞬間こそ思考停止の罠に陥っていると言える。その意味では、「死」に対して明快な答えなど与えられないという不快な憂鬱を描いている点で、本書は成功している。

 

 9.11の際、本書は「悲しみ」を思い出すための本として、人々の心を癒した。それは、テロと、それに対する報復戦争という、死者への悲しみよりも、それをもたらしたものへの怒りや恨みが蔓延していた状況に対する警笛だったのかもしれない。そして、3.11後にもう一度本書は生まれ変わる。「死」に対し、「ただ悲しむしかない」という無力さに喘ぐ主人公が、誰がもたらしたものでもない死に途方に暮れる読者と重なることによって。

 

 本書は、一つの答えを出さないことが、誰かの「答え」になるということがあるということを教えられた本であった。いつ読んでもいい、どこで読んでもいい。本書は、手に取ろうと決めた「そのとき、その場所」に、答えを開いている。