想像ラジオ

去年、初めて何かの本について自分が考えたことや感じたことをまとめたのが、

想像ラジオだった。

 

今読み返してみると、とても恥ずかしい書き方をしているが、

きっとその時は、そんな「感じ」の方がいいと思ったのだろう。

 

編集したい気持ちがこれ以上強くならないうちに、

貼りつけて公開してしまおうと思う。

 

想像ラジオ

想像ラジオ

 

 

 本書は、東日本大震災を題材に、2つの物語が並行に、交互に進められながら、徐々に一つの物語に収斂していくという形式で構成されている。1つは、死者たちの物語。もう1つは、生きている者たちの物語である。そして、この二つの物語をつなぐのが、本書のタイトルでもある、想像ラジオ(想像力)である。物語は、死者のD.J.アークと、生きているSさんの一人称のスタイルで、登場人物たちとのコミカルな会話を通してテンポよく進められる。これから私が書くレビューも、はっきりいって想像で書かれたものなので、想像力のある人にしか読めないかもしれない。なので、今から私が合図を出そうと思う。それが聞こえた幸運なあなたは、そのまま読み進めていっていただきたい。では、どうぞ。

 

想―像―ラジオー。

 

 読み進めていらっしゃるあなたは、想像力のある人ということで、お聞きしたいことがある。想像力とは、一体なんなのだろう。本書の登場人物は、死者の世界と、生者の世界を、それぞれの世界からなんとか想像力でつなごうとしている。しかし、往々にしてうまくいかない。本書が言わんとする想像力について考察するため、唯一最初から想像力のある人物として描かれているガメさんに注目してみよう。

 D.J.アークとは違う、もう一人の主人公Sさんと、東南アジアの島にいったときである。そこで、傷の入ったセダンに乗ったギャングに女やクスリを進められるが、ガメさんが断り、そして一言。「誰もがお前の欲しいものを欲しがるわけじゃないんだよ。」普通なら、ここで険悪なムードになるところだが、ギャングが、「じゃあ何が欲しいのか」と聞くと、「そんならメシを食おう」という。ここからが非常におもしろい。ギャングの家に行くと、目につくのは、前庭に咲き誇る花。妻が園芸好きだとどこか誇らしげに言うギャング。そして、妻の料理を食べたらもう日本に帰れないぞと、これもうれしそう。ギャングは、表では悪ぶっているが、実は家庭を愛する情の厚い男だったのだ。ガメさんは、ギャングの二面性を理解していたのだろう。

このあと酔っ払ったギャングは、自分の愛する娘に、ガメさんの酒を注がせる。「いつかお前の仕事になるかもしれないから」と。Sさんは、自分の娘に対してのあまりにもひどいものいいに、頭に血を登らせながら憤るが、ここでのガメさんの対応も秀逸だ。怒るでもなく、なだめるでもなく、ただ、ギャングを連れて部屋の外へ出て、ギャングの話を聞いてやるのだ。しまいには、ギャングは感激し、ガメさんを抱きしめてしまう。ついに二人で何を話したかは、作中では明かされないが、大方こういうことだろう。無理してボロボロのセダンに乗るギャング、女やクスリに明け暮れているかのように振る舞うギャング、突っ張るのはそれはそれでいいが、自分の愛する娘をそのために使ってはいけないよ、と。

 ガメさんには、想像ラジオが聞こえる。それは、想像力があるからだ。しかしながら「想像力」とは言うものの、それは能力ではないことがわかってくる。姿勢とも言うべきものかもしれない。ギャングのエピソードのあと、ボランティアへ向かう途中の車内でのエピソードかある。若者のナオ君と、宙太、そしてコー君の、被災者への接し方についての議論である。

 ナオ君の主張はこうだ。生きている人のことを第一に考えなくちゃいけない。そして、どうあっても部外者であるボランティアの自分たちが、死者についてあれこれ考えるのは、本当の家族や地域の人たちに失礼だ。しかしながら、宙太はこう切り返す。死者の声に耳を傾けようとすることを、禁止することはできない。どちらの意見も一理あり、納得できるだろうが、本書がおもしろいのは、この二人には、死者の声が聞こえていないというところである。二人が熱く議論している横で、コー君は、想像ラジオが聞こえると切り出す。この違いはなんなのだろう。

 ナオ君に死者の声が聞こえないのは、納得できる。彼自身、考えてはいけないと思っているからだ。しかしながら、宙太の場合、被災地でのボランティアを通して経験したことから、様々なことを考えて、やはり、死者の声に耳を傾けようとしている。にも拘わらず、彼には聞こえず、なんとはなしに二人の話を聞いていたコー君に、想像ラジオが聞こえるのだ。振り返れば、コー君は実は、ガメさんが病気を抱えていることを、Sさんにだけ打ち明けた。Sさんの親が、ガメさんと同じ病気で亡くなったことは、知らせてはいないはずなのに、だ。

 この物語に登場する生きている人の中で、想像ラジオが聞こえるのは、ガメさんと、コー君だけである。そして、この二人には、やはり何かを察するということの他に、自然体であるという点で共通しているように思う。

 想像力とは何かについて考えてきたが、それは、自然体でいるということに関係しているように思える。何かを語ろうとする人も、聞こうとする人も、それに必死になればなるほど、想像力は損なわれていくのである。だから、本当の意味で死者の声に耳を傾けるというのは、自然体でいるということであろう。

 妻と息子に呼びかけようとして始めた想像ラジオも、実は最後まで呼びかけることはできなかった。それは、まさに想像力が足りなかったからである。しかしながら、最後、語るのではなく、自然な気持ちで耳を澄ませることで、妻と息子の声を聞くことができた。この姿勢こそが、想像力といえるだろう。

 長々と書いてきたこのレビューも、そろそろ終わろうと思うが、最後に一つだけ。本書が伝えたかったことは、何も東日本大震災に限った話ではない。現代社会に足りないもののひとつ、それが想像力ということだ。私も、日々自然体でいることをこころがけていきたいと思う。ということで、最後にお馴染み。

 

想―像―ラジオー。