「応答」としての被災者支援―『しんがりの思想―反リーダーシップ論』を読んで

 

 

Reviewer: 崎浜公之

Date:2016.4.21

Author: 鷲田清一

Year:2015

Title:しんがりの思想―反リーダーシップ論

Source: 角川新書

Index:

第1章 「成長」とは別の途

「右肩上がり」を知らない世代の登場

「右肩上がり」の世代―意識から抜け落ちた未来世代のゆくえ

<成長>と<縮小>のジレンマ?

「経済成長」の脱神話化へ 現代の「孤立貧」

<縮小社会>への途 制御不能なものの上に

経世済民」の消失

「押しつけ」と「おまかせ」のあわせ鏡

市民の力量が問われている

 

第2章 サービス社会と市民性(シティズンシップ)の衰弱

「顧客」という物言い

いのちの世話とその「委託」

市民の無能力化 <中間>の消失

商店街のノスタルジー?

<消費>が基準になっているまち―<便利さ>と<快適さ>に押し流され

プライベートなものが充満するまち

“ワーク・ライフ・バランス”の意味再考

社会的共通資本という考え方

 

第3章 専門性と市民性のあいだの壁

専門家主義と市民の受動化

トランスサイエンスの時代

科学技術は専門家にまかせるには重大すぎる?

「理性の公的使用」

制度の射程距離

専門家と市民のディスコミュニケーション

プロに委託する?

制度の内・外の境界でなされるケア

市民性の再建へ

 

第4章 「しんがり」という務め フォロワーシップの時代

「観客」からの脱却

全員に開かれているということ

「しんがり」の思想

「しんがり」の務め フォロワーシップの時代

松下幸之助の味わい深いリーダー論

言葉の倫理

 

第5章 「押し返し」というアクション 

新しい公共性の像

無縁社会

ひとを選ぶ社会

選別でない選ばれ

パートということ

無縁の縁

分断の深化

あえてみずからをヴァルネラブルに―ボランティアという活動

「身を消す」ひとたち

「押し返し」というアクション

責任未満の場所から立ち上がる責任

「新しい責任の時代」

リベラルということ

未来からのまなざし

 

Review

 

本書は、一つの目的のためにある組織におけるリーダーシップ論に対する批判を行っているわけではない。開かれた集合態、たとえば地域社会、NPOやもろもろの教育機関などにおいて、皆がリーダーになろうとする社会がうまくいくはずがないと指摘し、反リーダーシップ論を展開している。

 

まず第1章、第2章では、人口減少や経済成長の限界を例にあげ、社会としてダウンサイジングしていく必要があると述べている。つまり、右肩下がりの社会である。このような社会では、何が最も重要で何が余分で諦めるべきかを優先順位をつけていくほかない。しかしながら、近代化の過程で<いのちの世話>をシステムやサービスに依存するようになった現在の私たちに、その選択ができるだろうか。鷲田は、村八分の例を挙げてこのようにいう。「村八分という言葉がある。かつて村の掟や約束を破った者、秩序を乱した者に対してなされた制裁行為のことである。村での生活にはたがいに協力することが義務づけられた十の仕事がある。出産の手助け、看病、改築・葺き替えの手伝い、消化、水害時の助け合い、成人式・結婚式の手伝い、埋葬と追善法要の手伝い、旅行の世話である。村八分という制裁は、このうち消化と埋葬を除く八分を断つ事を意味した。―中略。村十分のいったいどれだけを、今日わたしたちはしているだろうか、できるだろうか。たぶんゼロだろう…。」 消費を基準とした社会において、<いのちの世話>までシステムとサービスに「おまかせ」し、なにかあれば責任を「押しつけ」ていたが、右肩下がりの社会では、一人一人が「何かを諦める」決断をしていかなければならない。市民としての力量が問われている。

 

第3章、第4章では、「最終的には社会的な価値判断によって決定するしかないような」問題について、いかに市民が決定していくかの考え方を提案している。それがフォロワーシップであり、しんがりの思想である。だがその説明の前に、まず専門家主義について批判している。例えば、環境問題、エネルギー問題、地域社会の課題等については、専門家もまた「特殊な素人」ないしは「部分的な専門家」であるに過ぎないことを確認した上で、カントの述べた「理性の公的使用」について言及する。「理性の公的使用」とは、「たまたまじぶんに恵まれた知的才能を、じぶんのためではなく、他者たち、もっと正確にいえば人類のために使うということである。」ここで興味深いのが、カントがこれに対して「理性の私的使用」と呼ぶのが、プライベートな知性の使用、つまり自己利益のための個人的使用のことではないとしていることだ。カントによれば、「私は、自分自身の理性の公的使用を、ある人が読者世界の全公衆を前にして学者として理性を使用することと解している。私が私的使用と名付けているのは、ある委託された市民としての地位もしくは官職において、自分に許される理性使用のことである」(『啓蒙とは何か』)つまり、特定の社会や集団のなかでみずからにあてがわれた地位や立場に従って振る舞うこと、割り当てられた職務を無批判的に全うすることが「理性の私的使用」なのであると。これをもとにすると、専門家が専門の領域で知性を使用することは、「理性の私的使用」に他ならない。しかし、必要とされているのは、ある集団や組織のなかで配置された地位や業務から離れて、知性を用いることである。このような「理性の公的使用」を体現する一つの姿勢がフォロワーシップであり、しんがりの思想である。 「しんがり」とは、合戦で劣勢に立たされ退却を余儀なくされたときに、隊列の最後部を務める部隊のこと。限られた軍勢で敵の追撃を阻止し、味方の犠牲を最小限に食い止める。また、登山のパーティーで最後尾を務めるひとも「しんがり」という。「しんがり」だけが隊列の全体を見る事ができ、全体のフォローを行う。つまりまとめると、だれかに、あるいは特定の業界に、犠牲が集中していないか。このままではたしてもつか。といった、自らの専門性を超えた全体のケア、各所への気遣いと、そこでの周到な判断こそ、縮小してゆく社会に必要なフォロワーシップの心得であり、しんがりの思想であると鷲田は述べるのである。

 

最後に、第5章では、IターンUターンに見られるように、外部に委託した<いのちの世話>を取り戻そうとする個人の動きや、単なる消費活動であった購入を、応援している商品を「選ぶ」という風に捉え直す動きに見られるような、制御不能なグローバル経済の抵抗しえない流れに個人で立ち向かう動きを、鷲田は「押し返しのアクション」と呼ぶ。そしてそれはまた、「責任未満の場所から立ち上がる責任」であると述べる。ここでいう責任とは、respond+abilityという語源から、応答可能性、つまり応答の用意があることを言う。責任とは、「誰かに待たれていること」という感覚なのである。社会のシステムに生活をそっくり預けるのではなく、責任問題が生じる未然から応答の用意をしていくこと、そのような姿勢を一人一人が持つことが重要である。

 

さて、熊本地震に対し、様々な人々が様々な場所で活動を展開している。通告止めマップを作るもの、情報サイトをまとめるもの、避難所での生活の注意点をわかりやすく解説するもの…。それらは、単体で見れば非常に有用なものが多いし、その出来映えは非常に質が高いものが多く、発見する度についつい私も反射的に他の人に「シェア」したくなってしまう。

 

しかしながら、本書を読み終えた今、私たちが再度注意深く反省しなければならないことがあるとすれば、それが「理性の私的使用」になっていないかという点であろう。つまり、それぞれがそれぞれの持ち場で出来る(と規定している)ことのみを全うし、本当に重要な<いのちの世話>を忘れていないかということだ。<いのちの世話>とは言うまでもなく、被災者の支援だ。当然だが、被災者なくして被災者の支援を行うことはできない。しかしSNS上では、様々な支援が情報提供という形で行われているように見える。楽観的に見れば、震災が起こった直後から、有益な情報がこうもたくさん発信される社会というのは、災害を多く経験した日本の一つの達成とも言えるかもしれない。しかしながら、ここではたと立ち止まって考えなければならないのは、その情報(とその行動)は被災者に「待たれているか」ということである。つまり、震災直後に情報が溢れ出すというのは、鷲田の言う「応答」ではなかろう。言わば反射である。このように反射的に生産された情報は、被災者に対して「ああした方がいい。それはいけない。これだけは忘れないように。」という形で、ある一定の解に向かって導こうとする。まるで一つ一つの情報が被災者をぐいぐい引っ張るリーダーシップをとろうとしているようにも見えてくる。まさに現在のこのような状況が、鷲田が示唆するリーダーシップの弊害ではなかろうか。であるとすれば、やはり「応答」としての被災者支援、<いのちの世話>全体へのケアを考えるしんがりの思想が、被災現場においても求められているのかもしれない。