「君の名は。」のバッドエンド的リアルについての個人的な話

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 先日「君の名は。」を、阿倍野シネマで鑑賞した。もちろん一人でだ。僕にはお好み焼きの粉を2袋イギリスまで届けて欲しいとお願いしてくれる素敵な女の子はいても、一緒に映画を観に行ってくれるような情の厚い女の子はいないのだ。もちろん男友達と連れ立って行くというのも悪くない。そういう友達がいないわけでもない。だが今回は一人で観に行った。前後の予定に余裕がなくて、せっかく一緒に観ても、「この映画に哲学はあったのか。」とか「今度聖地巡礼してみないか。」とか、「伝統というものは形骸化しているという文脈でしか語られないものになってしまったのだろうか。」とか、そんなことをああだこうだ言い合える時間がとれそうになかったからだ。それならば、一人で静かに鑑賞し、一人でその余韻に浸った方がいいだろう。たとえ両隣のカップルが暗闇に乗じてイケない行為に精を出していたとしても。

 

 

 そんなわけで、僕は「君の名は。」を一人で観に行った。先に断っておくが、これは「君の名は。」のレビューではなし、感想文ですらない。日記である。僕の日常の文脈の中で日記の一部分にたまたま「君の名は。」が出てくるだけで、中心的に語るわけではない。だが、やはりこの日記を書くきっかけになったのは「君の名は。」であるのだから、その内容に部分的にでも触れないわけにはいかないだろう。そんなわけで、ひょっとするとやはり、この先重大なネタバレをしてしまう可能性があるので、純粋に映画を楽しみたい方は、ここで読むのを一旦停止していただければと思う。

 

 「君の名は。」という映画を簡単に説明すると、「まだ出会わぬ男女2人が、いかにして出会うか」というテーマが、偶然的に引き起こされる災害を乗り越えるというコンテキストにおいて演出されるものである。そこにおいて2人が、必然的な運命に導かれて、時間的・空間的な距離の差異を、「むすび」を表す伝統的な組紐をキーアイテムにして超越していくドラマが、本作の見どころであろう。空前の大ヒットを巻き起こした所以は、これらのストーリーの表現描写の緻密さであり、美麗さである。そこでは押し付けがましい教訓は省略され、楽観的で淡い期待に裏打ちされた、「ただひたすらに美しい」光景が圧巻の映像として観るものをクギ付けにする。緩やかな時間の流れで穏やかに紡ぎ出される日常の描写と、事件前後の手に汗握る焦燥感が、RADWIMPSの洗練された印象深いギターアルペジオの音の波と見事に調和し、映画の世界に自らの身体が完全にシンクロさせられるのだ。観るものを置いてけぼりにしない親切なストーリー展開と、ディテールまでこだわり抜く表現技術の結晶の賜物を前に、深いため息をつかないではいられないだろう。

 

 

 ところで、僕がこの日記で焦点を当てたいのは、映画の部分的内容に関するああだこうだではない。全く外れて、映画とは別のバッドエンド的なリアルについてである。まあ例えば、「万事尽くすも三葉が助からず、深い喪失感を抱えて生きる滝くんのリアル」のようなものである。そんな仮定の物語であり、結局のところ僕の個人的な物語である。

 

 その物語の中で、僕はおそらく、涙を流しながらガバッと飛び起きるんだと思う。覚めきらない意識の中で、誰かの名前を呼びながら。いったい誰の名前だったのか、意識がはっきりしていくにつれてぼんやり霧散していく不思議なパラドックスを体験するのである。後には、何かを喪失しているという感覚だけが意地悪く残る。それが、僕の日常であり、リアルである。僕は大して頭も良くない癖に、モラトリアムの延長を大学院生というステータスで甘んじている25歳だ。結局アカデミックの世界にこれ以上踏み込む勇気も能力もないまま、3つばかし年下の同期たちと社会のシステムの一端を担う予定である。そう、そういう予定である。

 

 僕は、そういう予定だった女の子を知っている。絶世の美女というわけではなかったが、とても気立てが良くて、いつも何かに気がついては、進んで世話を焼いてくれる小さな女の子だ。彼女の書いてくれる色紙はいつも隅の隅までデコレーションが行き届いていて、書く文字は丸みを帯びて決して乱暴なはらいを伴うことはなかった。僕の知り得た中で最も公平的な目線を持ち、僕のちょっとした意地悪なユーモアを、穏やかな目線でたしなめてくれる、優しい心の持ち主だった。彼女が誰かを拒むことはなかったし、誰も彼女を拒まなかった。

 

 ただし、残念ながら彼女の優しさに関する具体的なエピソードを、ここで書くことはできない。なぜなら、どうしても思い出せないからだ。朧げで、靄がかかっていて、ひどく曖昧なのだ。だが絶対に、絶対に忘れてはならない優しいまなざしが、確かにそこに存在していたという感覚が、何よりの彼女の存在証明なのではないかという感じさえする。そんな風に考えるのは、あまりにも自分勝手であろうか。

 

 とにかく、彼女は突然亡くなってしまった。隕石が落下してきたわけでもないし、1000年に一度の大災害に巻き込まれたわけでもない。年間で4000人以上、毎日11人程度が経験し、命を落としている交通事故が、彼女の命を奪ったのである。彼女が僕に送ってくれた過去のメールや、かわいいイラスト付きで渡してくれたメッセージを読み返すことはあっても、もう僕が実際に彼女の声を聞くことは永遠にないのだ。そして彼女がいなくなってしまった後にも、僕は空腹を感じ、本を読み、恋をするのだ。そんな風にして、もう3年の月日が経とうとしている。

 

 言っておくが、僕と彼女は特別に親密な友人というわけではなかった。僕がEUの移民政策について少し興味があると伝えれば、それに見合った本を選んで貸してもらったり、時間が合えば茶屋町マクドナルドに立ち寄ってお互いの恋愛観について確認しあったこともあった。だがそれ以上のことはなかった。道端にごみが落ちていれば、拾ってごみ箱に捨てるというような、そんな自然な友人関係であった。だから、彼女の突然の訃報が届いたとき、正直言って僕は情けないほどどうしたらいいかがわからなくなってしまった。だって、そんなのって、どう考えたって自然じゃなかったから。

 

 彼女の通夜で、僕は結局のところ一滴の涙も流すことはできなかった。そしてその時から彼女の存在が、僕の心の中で居場所を求めて彷徨い出した。

 「わたしは一体だれだったの。何のために生きていたの。」

 「君は君だ。それ以外の何ものでもないよ。」

 「でもわたしは死んでしまった。わかる?もうご飯を食べることもないし、社会のシステムを担うわけでもない。結婚だってまだしてなかったのよ。」

 「確かにそうかもしれない。でも、君と関わった人はみんな、君のことをずっと覚えている。その記憶は確かなんだ。」

 「絶対って言い切れるかしら。現にあなたはもう、わたしのことを、温度を持った存在として記憶していないのじゃないかしら。人間の記憶なんて曖昧よ。誰もがみんな、ハリーポッターみたいに杖の先から記憶を取り出せるわけじゃないのよ。」

 「僕にはわからないよ。なにせこんなことって初めてだったんだ。初めからうまくはいかないよ。」

 「感じて。感じ続けるのよ。あなたの意識が覚醒する前に。わたしの存在が消える前に。」

 そして僕は、ガバッと布団から飛び起きるのだ。霞がかかった意識のなかで。涙を流しながら。時間を超越する道具が用意されていないところが、この物語を楽観的なものから遠ざけているのである。

 

 結局もし、三葉が助からなかったらどうなっていたのだろう。出会っていたはずの、出会ったはずの三葉が、喪失されてしまったらどうなっていたのだろう。それはもしかしたら、夏休みのない8月のような、味気ない世界になってしまうのだろうか。なら僕の世界は、色を失ってしまったのだろうか。僕にとって彼女は、世界にとって彼女は、いったいなんだったというのだろう。なんと呼べば、いいのだろう。

 「教えてくれ。君は、いったい誰なんだ。僕にとって君は、いったい何なんだ。」

 「頭でわかろうとしてもだめよ。そっちじゃないの。あなたのカラダが知っていることよ。」

 「僕のカラダが知っていること?それだけじゃわからないよ。僕はどうしたらいいんだ。」

 「ジャック・ラカンって知っているかしら。ジグムント・フロイトの驚異的な読み手よ。彼は夢についてこんなことを言っているの。眠りから覚めることは、現実への回帰を表しているのではない。むしろ、夢の中にこそ、あなたも知らない現実がある、と。だから、あなたは夢よりも深い覚醒をしなければならないのよ。」

 「そんなこと、僕にできるかな。」

 「するのよ。できなければ、わたしは永遠にあなたの中で彷徨い続けるしかない。まるで、違う種類のパズルに入れられて、居場所を探し続ける孤独なピースみたいに。」

 

 無理難題のようにも思える。しかし、よくよく考えてみれば、夢よりも深い覚醒というのは、日本人の感覚に馴染みがあるのかもしれない。新海誠は、「君の名は。」の物語のエッセンスは、古今和歌集の次の詩に凝縮されているという。

 夢と知りせば、覚めざらましを

 こんな風に、夢の側に現実があるという感覚は、なにも偉そうに言われなくても自然と身につけてきたのだろう。三葉と滝くんが、夢の中で現実を変えていったように。夢を見て涙が流れたのなら、その涙のふるさとが知っているはずなのだ。言葉が生まれるより、ずっと前から。

 

 だから僕もそろそろ、考えるのをやめようと思う。彼女は、言葉を尽くしても、尽きない存在だから。彼女は、僕の夢の中で、現実に存在しているのだから。彼女が死んで、残ったのは、朧げになっていく記憶ではなく、調子に乗る僕をたしなめてくれる優しいまなざしだ。僕はそんなこと、最初から知っていた。知っていたのに、考えすぎていたんだ。確かに感じる彼女のまなざし。彼女のまなざしを感じながら僕が生きることが、彼女の存在証明になると思うんだ。そんな風にしてようやく、彼女は、僕の中に居場所を見つけたと言えるのかもしれない。胸ポケットに収まった、ボールペンみたいに。

 

 この日記は、「三葉がもし助からなかったら」というバッドエンド的な仮定から始まった。確かに、「君の名は。」の映画で三葉が死んだら、本当にバッドエンドになるだろう。なぜなら、三葉のまなざしなんて映画で全く描写されておらず、滝くんがその後いったいどんなまなざしを感じて生きるのかなんて見当もつかないからである。その意味で「君の名は。」は、主人公2人のごく限られた部分が切り取られているのみで、その他の人間的本質は省略されているのである。断っておくが、これは批判ではなく、確認である。

 

 だが、現実の物語は、同じようにバッドエンドになるとは言い切れない。なぜなら、物語に描かれない、言語化できない彼女のまなざしを、カラダで感じることができるからである。

 

 そんなわけで、僕は、イギリスで留学に挑戦する友人に、お好み焼きの袋を2つ持って行こうと思っている。日本にいる友人一同からのエールが綴られた色紙を携えて。だって、胸ポケットにいる彼女が、そうしたそうな目をしていたから。

 

 「とか言って寝坊したりしたらどうしようかな。」

 「だめよ。」