誰かを亡くすことについて最近思うこと

喪失には2段階あるそうだ。

 

1つ目は物理的な喪失。文字通り。

2つ目は社会的な喪失。語られなくなること。

 

僕は4年近く前に友人を亡くした。

学部生時代の大半の時間を費やしたある共同体の大切な仲間だった。

優しい女の子であった。

 

それから僕たちは彼女について話すのを避けるようになった。

実に巧妙だったと思う。

その場の空気を壊さないように、乱さないように。

さりげなく、なにげなく、先回りして話題の芽を摘んだ。

誰がというわけでもなく、僕たちはごく自然にそう振る舞った。

確証はないけれど、思い当たる節がないわけではないというそういったレベルで。

 

僕たちが彼女について話さなくなってから3年ほど経って、

ようやく僕たちは「彼女について話していない」ということに気がついてきた。

何がきっかけだったんだろう。それはわからない。

避けることでもたらされる何らかの負荷が3年という月日の間に蓄積され続けて、

ついに閾値に達したのかもしれない。

ともかくじっくりと溜め続けてきたそれが、堰を切ったように溢れ出し、

「彼女について話さなければならない」という思いが募った。

 

僕は次のように考えた。

「僕たちが彼女について語らないということは、まさに僕たちで彼女の社会的な喪失を後押ししているようなものだ。

だから、語りを取り戻し、彼女の存在を社会的に恢復しなければならない」と。

 

このアイディアを何人かの同志に話したところ、概ね賛同してくれた。

しかし、一つの指摘が 心にひっかかった。

 

「おれたちはきちんと本当に、彼女を喪失できているのか。」

 

それまで喪失したことを前提に考えていたので、とても重要な指摘だと思った。

つまり、こういうことだ。

 

4年近く経つ今もなお、まだ本当には信じられていないような気がする。彼女が亡くなったということを。

今でもどこか遠くで、元気に過ごしているんじゃないかと、そんなことを思ってしまう自分がいる。お通夜にも出たのに。」

 

この感覚は、リアルだと思う。

確かにそんな気がするのだ。

つまり、大前提であった1つ目の喪失、物理的な喪失を本当に経験したのか、

そこが曖昧なのである。

 

この感覚は、しばしば自然災害などで残された遺族が感じることのある、

「曖昧な喪失」と似ていると考えている。

 

彼女の訃報が届いたとき、僕たちはすでにかつての共同体を離れていたため、

彼女と頻繁に連絡を取り合っていたわけではなかった。

だから、「彼女が交通事故で亡くなった」と聞いても、すぐにピンとはこなかった。

そしてその感覚が今も続いている。

彼女の死は、僕たちにとって曖昧なままではないだろうか。

 

いつかネパール地震の被災集落を映したドキュメンタリーを観て考えたこと。

死を受け入れるために、儀式が必要とされている。

儀式とは、死と向き合い、死を意味づけ、死を受容するための過程である。

この過程を経て初めて、第1の喪失が経験されたと言えるのではないかと思う。

 

儀式とは本来、非常に合理的な形式的行為だと思う。

全ての行為に意味があり、曖昧さや無駄は省かれている。

しかしながら、僕の個人的感覚においては、こういった形式は若者にとっては形骸化していると思う。

形式の意味が忘れられ、本来の機能を果たしていないのではないだろうか。

つまり「そうしなければならないらしいから、そうしている」という形式の目的化が起こっているような感覚である。

そしてそれが、僕たちにとって彼女の死が曖昧なままになっていることの一つの要因だと思っている。

 

なので、スタート地点を改めなければならないと感じた。

僕たちはまだ、彼女の喪失をきちんと経験していない。

だから、僕たちにとって意味のある形で彼女の喪失を受容し、

その上で彼女についての語りを恢復しなければならないと思うわけである。

 

こういった彼女の喪失に関する僕たちの振る舞いを振り返って思ったことは、

曖昧な喪失によって、物理的な喪失より先に社会的な喪失を経験するという順序関係の倒錯が起こっていたのだろうということ。

そして、社会的な喪失から恢復するには、物理的な喪失をきちんと受容した上で語りを取り戻さなければならないだろうということだ。

 

次の彼女の命日を一つの機に、僕たちは「同窓会」を開催することになった。

偶然か必然か、「同窓会」と呈しての集いは卒業後初めてである。

おそらく、「同窓会」にしてしまうと彼女の不在を否応なく感じてしまっただろうから。

 

だけどようやく、開催することができる。

彼女の不在と向き合い、彼女の存在を社会的な喪失から恢復させることができる場を。

 

ちょっと神秘的な考えすぎるだろうが、

僕は、死者の時間は必ずしも停まるとは限らないと思っている。

僕たちにとっての語りが彼女の社会的な存在なのであれば、

僕たちの語りが変化すれば、それはつまり彼女も共に変化するとうことだ。

それは記憶の風化とは異なると思う。

形あるものが徐々に失われているのではなく、

彼女への新しい語りが生まれ変化していくのだから。

 

だから、語りは継続されなければならないと考えている。

1度きりで終わったら、彼女の存在はそこでまた停まってしまうと思う。

終わりなき対話。これをしていかなければならないだろう。

 

その第一歩に向けて、少しずつだが動き出せているのがうれしい。

ゆっくりと、着実に。自分たちのペースで彼女との対話的な関係をつくっていきたい。

最近、そんなことを思っている。

 

追記

 

彼女の死の受容について、「それぞれが個人で考えればいいことではないか」という見方がある。

もっともな見方だと思うし、それができる人はそれで全然いいと思う。

 

でも、どうしても自分一人では受け入れられないというケースもあると思う。

例えば、「彼女と個人的に特別親しかったというわけではないが、共同体の仲間として大切な存在だった」

というような場合である。

 

そのような場合、彼女の死を個人的に受容するというのは、原理的に難しいと思う。

なぜなら、彼女の存在は個人的な存在というよりは、共同体と切っても切れない存在なのだから。

共同体として彼女の死を受容し、それを介して個人的にも受容するというステップが必要になるのではないかと思う。

 

だから、自分一人で悩むことはないのである。

自分たちにとっての問題として、考えていけばいいと思うのである。